ClockRoom

2001年 5月 | 運営ノート

DirectX Graphics レポート No.1

私は現在、学校での研究のため、マイクロソフト社のグラフィックコンポーネント『DirectX Graphics』を試用している。 そこで、今後、なんらかの進展があるたびに本ページを使ってレポートしていきたいと思う。

早速だが、今現在の進行状況は、平面ポリゴン(通称「板ポリ」)とテクスチャを用いた2D描画を行なうところまで完了している。 率直な感想は「極めて簡単」である。 伊達に互換性を捨ててまで最適化したわけではなかったことが明らかとなった。 今までの機構ではどうしても複雑であった初期化処理が極めて単純で済む。 自らバックバッファやZバッファなどのサーフェスを構築する必要がなくなり、初心者でも十分容易に扱えると思えるほどである。

また、最も心配だった2D描画も難なく扱うことができた。 これは、トランスフォーム済みのポリゴンを描画することにより、いとも簡単に解決した。 しかし問題もある。 まだ試してはいないが、どうやら、あるグラボの仕様に合わせて、テクスチャのサイズは256×256が限界らしい。 つまり、画面いっぱいの画像を描画して背景にするといったことができないのである。 これはなにかと面倒なことになりそうだ。

次回は2D描画におけるZ座標の謎に迫る。

Perl リタイア

タイトル通り、メールマガジンで学習していたPerlは、今回もまたリタイアする運びとなった。 しかし、今回は私がリタイアしたのではない。 メールマガジンがリタイアしたのだ。 しばらくマガジンが来ないと思っていたら、ついに廃刊のお知らせが届いた。 理由はよくわからないが、非常に残念である。 と同時に、意外とひとつの事が長続きしない人の多さを知る。 せっかく始めたのだから、もう少し責任を持って続けてほしいと思うのだが、まあ、ここで愚痴ってもしようがない。 何か事情でもあったのだろう。

それにしてもショックである。 前回の英語のマガジンに続き今回のPerlのマガジンの廃刊。 どうも自他ともに、私がこれ以上言語を学習することを認めていないようだ。 しかしながら、Perlに関して言えば、先日掲示板で紹介のあったサイトのおかげで学習を続けられそうである。 とにもかくにも、結論から言えば、真面目に勉強したいことはメールマガジンを使うなということだろうか。 しかしながら、メールマガジンの手軽さは非常に魅力的で手放しがたいものである。

首刈り女

今日、駅構内を歩いている時に、ふと後ろを振り返ると「なま首」を持った女性が後ろからついてくる。 前に向き直り、まさかと思いそのまま歩き続けたが、どうしても気になるので怖いもの見たさでもう一度振り返った。 すると・・・

「ドキッ!!!」

マジでなま首を持っている!! と思ったらただのマネキンの首だった。 あぁ、ビックリした。 そんな怖いもの脇に抱えて歩くなよぉ~・・・

失われた目標

重苦しいタイトルだが、実は単なる笑い話に過ぎない。

ふと思い出したことがある。 それは『エンメモ』の完成期日である。 かなり前の話ではあるが、私は冗談でエンメモの完成期日を「ハル研究所の『マザー3』が発売されるまで」と設定したことがあった。 あくまでも冗談だったので、別にそんなことを意識して製作したことは全くなかったが、もしこれが本気だったら、今頃は大問題であったことに気がついた。

というのも、ご存知の方も多いかと思うが、実は目標として定めたマザー3は既に開発が打ち切られているのである。 ゲーム雑誌等でもこのことについて取り上げられていたため、割と有名な話である。 しかし、マスコミの言うことを百も信じるのはいかがなものかと思い、2ヶ月ほど前ではあるが、マザー3のプログラマと直接お話しをする機会があったので、そのことについて伺ってみた。 すると、どうやら「本気(マジ)」で出ないらしい・・・

危うくエンメモの出荷まで中止になるところだった・・・ んなわけない。

死語?

「ディレクトリ」、「リターンキー」・・・

思わず口走るこれらの言葉が意外と通じない。 ひょっとして、もう死語?

バッテリ切れにご注意

やられた・・・

携帯ゲーム機の悪夢が起こるべくして起きてしまった。 先日購入したワンダースワン用の『ファイナルファンタジー2』をプレイ中に電池が切れてしまったのである。 電池切れのサインはしっかり表示されていたのだが、こういうのは大抵の場合、サインが表示されてからもしばらくは持つものである。 しかし、時間を忘れるほど夢中になってはもはや問題外である。 こればかりは自分に非があったことを認めざるを得ない。 今度からは、このようなサインにはできるだけ迅速に対応したい。 しかしながら、バッテリ代は結構馬鹿にならないものである。

新しいもの、消えるのも、復刻するもの

私が購読しているあるメールマガジンが、突然に終わりを告げた。 私はそのマガジンが結構好きだったので非常に残念である。 これに限らず、最近は、消えゆくものがあとを絶たない。 それは、物だったり、店だったり、番組だったり、または生命だったり・・・

それに対して、一度消えたはずのモノを復刻させるのが、どうも最近の流行りのようである。 これに関しては賛否両論であり、なんとも言いがたい。 昔の思い出を今に蘇らせる目的での復刻には、私は「ある程度」の賛成意見を持っている。 今となっては入手が困難なモノをもう一度手にしたいという欲求は、きっと誰にでも1つはあるはずである。 私の場合はゲームにおいてその気持ちが強い。 しかし、同じ復刻でも、「昔の栄光をもう一度」的な「一方的な復刻」には反対である。 どうもこれには商売っ気が見え隠れしてしようがない。 しかし、この2種類の復刻の境界は非常に曖昧である。 なぜなら、ある人にとっては思い出だったり、手に入れたかったモノであっても、ある人にとっては後者にしか見えなかったり、その判断は人それぞれである。 よって、復刻が良いとか悪いとかの議論については一歩距離を置きたいところである。

ただ、この「復刻ビジネス」が主流になってしまうのはどうしても避けなければならない。 なぜなら、どちらの復刻にも共通して「新しさ」がないからである。 よく、ファンタスティックRPGでありがちな「歴史は繰り返す」なんて文句があるが、繰り返される歴史なんて御免である。 そんな歴史はすぐに飽きてしまう。 昔のよかったところをもとに新しいモノを作り上げる「発展的回帰」には大いに賛成だが、発展の欠片もない「現状維持」には警鐘を鳴らしたい。

・・・って、一体なにを書いているんだ、私は。